伊勢講

[信仰的講4]代参講は、信仰の対象である神社に参詣するために講中から代参人を式をたて
ものである。くじや輪番によって決まった代参人は、積み立てた講金を旅費や参拝料にあてて、
講中の御札を受けてくるのである。したがって、こうした講は本質的には崇敬者の任意団体ということに
なるのだが、中世依頼の伝統をもつ伊勢講や、地域社会の共通の利害と結びつく講などでは
地域単位で参加している場合が多い。
これこれ、これが我ら伊勢講のルーツやね。
(小学館 大百科事典より)     (つづく)


伊勢講物語6

(2000/7/22)

連中の力がいかんなく発揮されるのが、
”葬儀”の場である。
我々も40を過ぎると、ボツボツと身内に不幸が出てくる。人生において、避けられない通過点であるが

我が連中も、既に両親を失ったもの2人、片親を失ったもの3人。その都度葬儀の場を経験
してきた。葬儀ともなれば、連中はなにをさておき手伝いとして召集される。

もちろん、おやじさんの連中や兄弟の連中もすべて召集されるわけであるから、人数的には
これだけでもだいぶ手伝い手がある。これ以外にも、隣組、各組みの世話役、区長、日頃付き合いの
深い家庭などがすべて手伝い手として、”呼び使い”される。だから、これといって仕事が
ないこともあるのであるが、とにかくその場にい合わせて、こま使いに具える。
駐車場整理、受け付け、帳場、使い走り、板供樒の貼りだし、出棺時の先達などをこなす。

とにかく当の本人にとっては、そばにいてくれるだけで安堵の感がでてくるうれしい
存在である、なぜだろうか?学生の頃は、学校の友人たちも多数参列してくれるが、卒業し
連絡もとだえてる今頃の年齢では、唯一我々の同世代を共有できる存在が連中なのかも
しれない。
会社の人たちがいくら葬儀の場に入り込もうとしても、入りこめない別の場がそこにはある。

これが、今現在の伊勢講の存在意義になっているといっても過言ではないだろう。
                                                   (つづく)