ぴ〜教授の華麗な生活 タバコをくゆらしながらゆっくりと回想録
■ 母逝く('05/04/23)
2005・3・26 午前2:11分 母逝く。
48歳にして、両親との決別です。
この運命を、誰が導いていたのでしょうか、それが私にとって、はたまた違う道へ導く、岐路なんでしょう。
【父母病(やまい)あらば、牀辺(しょうへん)を離れず、親しく自ら看護せよ、一切の事之れを他人に
委ねること勿れ。時を計り便を伺い、懇ろに粥飯(しゅくはん)を勧めよ。親は子の勤(すす)むるを見て
強(し)いて粥飯を喫(きっ)し、子は親の喫するを見て、枉(ま)げて己が意(こころ)を強くす。
親暫らく睡眠すれば、気を静めて息を聞き、睡(ねむり)覚(さ)むれば、医に問いて薬を進めよ。
日夜に三宝に恭敬(くぎょう)して、親の病の癒えんことを願い、常に報恩の心を懐(いだ)きて、
片時も忘失(わす)るること勿れ。】
これは、【仏説父母恩重教】の一説ですが、釈迦無二が看病した親へのこの姿はそのまま私の
心にその姿勢を問いかけました。昔も今も、病に伏した時の親と子の姿は、永遠に変わるものでは
ない。
母が、骨折に倒れ、病院に運ばれ、そして天に召されるまで、109日間。最後に、親孝行をさせてくれるんだなあ
と思い、精一杯、時間の許される限り、傍につこうと思った。結局、70日ぐらいは顔を見せただろうか。
雨の日も、雪の日も、通った道がいい思い出でである。
いつも、会社帰りに駅から20分ほどかけて、歩いてくるもんだから、母は私に、自由に使える車を買ってくれと
せがみ、軽を買ってくれた。車はもともとあるけれど、妻も仕事に使っているので、私の自由にはならない。
そこらへんを、考えてくれたのと気軽にきてほしいという思いがあったんだろう。
12月9日の夜中、突然電話がなった。母が骨折した。簡単に骨折するもんである。自分の足に片方の足を
引っ掛けて、こけただけである。それも、外の呼び出し音に反応し、あわてて出ようとしただけなのに。
母はもともと癌を患っており、余命は少なかったが、元気に暮らしていたのに運命とはこんなもんか。
母も、こんなことで自分がよもやもう、家に帰れなくなり、そのまま天に召されるとは思っていなかったであろう。
人間、なにが終焉を迎えさすのであろうか。
股関節骨折は、見ていてもかわいそうなぐらい、いたがった。これほど、早く手術の日がこないかと、待ち遠しかった3日間は
なかった。手術後は、はりきってリハビリし、「早く帰って、あ〜〜するんだ、こうするんだ〜」 といっていたが。
骨折治療中は、抗がん剤治療は止まる。しかたがないが、これが結局は、悪循環したんであろう。
手術後2ヵ月後は、もう歩行機を使わず、歩けるまでに回復していた。これは、もう帰れるかなと思い。子供として
精一杯のことをしようと、自宅のトイレ、玄関、などの改造と介護グッズのあれやこれやを考え始めた。
そして、リフォーム開始。その経過のなかで、病院では、母が歩けなくなり、立てなくなり、トイレも簡易トイレに
変わり、やがて寝返りもうてなくなっていった。
昔人間のいう表現がいいのかどうかわからないが、なんせ頑固な母である。悪化するにつれ、人に当たるし
妻には厳しくなるし、言うことも めちゃくちゃになるし、看病しているほうは、なにが真実なのか、なにをしてほしい
のか まったくわからない状態になってしまう。それでも、やはり私は母の気持ちがわかるのか、なにをいわれても
受容してしまうのである。そんな中、早くから、付き添いの家政婦さんをお願いしようと、なんども母に言うのであるが、
なかなか承知しない。承知するのは、自分が耐えられない、限界まで来たときに意を決する母なのである。
そして、なくなる2W前。「家政婦さん付いてもらうよ。」と言った。母は首を縦にふった。よかった。
最後の2Wは、家政婦さんに甘える2Wであり、いろいろと話をする2Wであったようである。楽しかったのであろうか。
なくなる3日ほど前、私が帰る前に、ベッドを振り返ると、ニコっと笑って私の顔をみた。あんなかわいらしい笑顔の
母を観たのははじめてであった。なんか ず〜〜と看ていて よっかたという思いがこみ上げてきた。
亡くなる日は、午後10時ごろ家政婦さんの経験から、呼び出しがかかった。病院で静かに母を、見守っていたが、
母は、ぜいぜいと息とも言えない声を発し続けている。瞳孔はすでに開いているようにもみえる。あまりにも、のどの
おくの痰が詰まっているのか、ぜいぜいという音がかわいそうなくらい母を攻め立てている。
看護婦さんに頼んで、吸引機で出してもらった。すごい量の痰がでて、ぜいぜいという音がとまって、すこやかに
寝息を立て始めた。よかったなあ、楽になったなあ と体をさすりながら、声をかけた。
しばらくして、母はそのまま眠るように、逝ってしまった。楽になるのを待っていたようである。
「ご臨終です」というドラマチックな言葉が、先生の口からでた。人間の最後なんてあっけないもんである。
私は、両親とも、最後の臨終を看取ることができた。そういう意味では、親孝行せず、地獄におちることは
免れるだろうか?
結局母は、リニューアルした実家のトイレと洗面所を見ていないし、もちろん使っていない。
やすらかに眠ってほしい。父より3年長生きした母であるが、今は仲良く墓標が2つ並んで建っている。
結局仲のよかった夫婦だったんだろう。
両親の手を取って、送り出すことができた私は、いったいどういう運命を背負っているんだろうか。
追記:5・7
明日、49日の法要をするが、実は5・2〜3にかけて母が夢枕にたった。30代のすがすがしい姿を
した母であった。何かをしゃべっていたが、わからない。現れたことだけが、鮮明に覚えている。
後記:5.7
実は母がなくなった同じ日に、同じ町内の同級生の母も亡くなった。彼の家とは50mぐらいしか離れて
いない。結局、通夜も、葬儀もすべて同じ日に重なり、なんと火葬場も同じ時刻に並んで火葬にされた。
もちろん同じ檀家なので、お坊さんもいっしょ、だから時間的調整をせざるを得なかったが、それは町内の
人もたいへんであったのだ。どんな因果があったのかよくわからないが。
今日、同級生の母の方は、49日の法要を営んでいたが、
墓参りをしているその墓を見て、また驚いた。うちの墓の斜め後ろが彼の家のお墓であった。
こんなことってあるのかなあ。