伊勢講

[信仰的講8]旧暦11月23日の大師講は、講とよばれてはいるものの
家ごとの祭りである。元来は神の御子を迎え祀るという意味合いのものだった
ようだが、集団で祀るという事例はいまのところ皆無である。
(小学館 大百科事典より)   

以上のように信仰的講について百科事典より引用し記述してきたが、
その他に【経済的講】、【職業的講】と呼ばれるものがある。
我々の講とは、違う種類のものであり、ここでは引用しないが、いづれにせよ、
この講的集団活動を維持・存続している地域が今も現存していることは、事実であろうと思う。
ひとまず、伊勢講については、終りとしよう。


伊勢講物語10(2000/12/31)

俺達の伊勢講について、その経緯と実情を記録すべく思いつくままに
記述してきたわけであるが、この講も同じ地区であっても、無くなった大字
もあれば、我々のように存続しているところもある。存続している方が
少ないであろう。まぁ、ともあれここで、1シリーズを終わるとする。
読んでいただいた方々、御礼申し上げます。
                                                 (終り)
(2016.1.11)
2016年1月10日 記述終了から16年後、【還暦】の厄払いです。
前日に連中が集まり、「ぜんざい」を下ごしらえし、1月10日に村人達に
振舞いました。70人ぐらいでしょうかね、7時から始まり9時頃には終了。
炭をいこし、餅を焼き、ぜんざいに入れ、日ごろ逢わない村内のみなさんと
会話を楽しみます。
当日は、42最厄年の連中と村役、老人クラブの面々が集まっています。

お宮さんは「菅原神社」と云い(もちろん祭神はあの菅原道真です)があまり由緒云われ
を年寄りにきいてもよくわかりません。
境内には、道真没1000年(明治25年)に寄贈された牛の石造もあり、かなり
古い由緒もあると思うのですが。
お宮さんは もともと古墳であり、そこに箸尾氏が築いた外の城郭(砦)があった場所で
赤部城ともいわれたところです。

赤部(我々の字名)という地名は埴輪の埴土(はにつち:赤土)が採れたところで、
埴輪造りの部が住んでいたのかもしれません。赤という色の付く7土地名の由来は
そういう地区が多そうです。榛原の赤埴(あかばね)もそうです。

村内には「新木山古墳(三吉陵墓参考地)」もありその伝承を伝えているものと思います。
ここらへんは「赤穂墓」があったとされるところで、赤部という地名に転訛したのではないかと
思います。「赤穂墓」というのは書紀にでてくる記述で、十市皇女(天武天皇と額田王の間に生まれた皇女)
の御陵ではないかと云われています。
このような伝説が残っている土地だからこそ、この行事の伝統も残ってきたのかもしれません。

伊勢講としての行事はこれで完結です。我々 丙申(へいしん) 火のごとく申のごとくな運命です。